関の歴史①『安桜山城(関城)』

あけましておめでとうございます。
今年も昨年同様、日付を書いた夢に向かって、2007年の目標を立てた。尊敬するワタミの社長に触発されて、去年からやっていることで、目標のために具体的に何をするのかを、6本の柱ごとで行動計画を立てた。(仕事、家庭、財産、趣味、健康、教養)

そのうち、「教養」部分の目標として、
『関の歴史オタクになる』という目標を立てた。

そのための行動計画として、関の歴史に関する本を1ヶ月に1冊読むことと、そのフィードバックとしてmixiの日記に月3回関の歴史についての日記を書くことにした。
早速図書館にいって、適当な本を借りて、ネットでも調べていたら、かなり面白い説があることが分かった。

「山内一豊の妻千代は、幼少の頃、安桜山城で暮らしていた」
らしい。

関の歴史①『安桜山城(関城)』

1565年。織田信長と稲葉山城の斉藤氏の戦い。信長軍は、尾張小牧城を拠点として、犬山城を降し、木曽川を渡って、猿ばみ城(坂祝町勝山)を攻め落し、東濃から中濃へと、稲葉山城を狙って進捗していた。

防戦する斉藤側は、安桜山城に長井隼人他、加治田城(富加)、堂洞掛上城(富加)に武将を配し、守りを固めた。

信長勢は、加治田城の城主佐藤紀伊守の裏切りもあり、紀伊守も含めた約2千騎で堂洞掛上城を降したあと、長井の軍と肥田瀬川原で激しい合戦を繰り広げた。長井軍は大きな痛手を負った。

勢いに乗った信長勢は、安桜山城を攻め、城は落城した。

信長が兵を戻そうとすると、長井隼人は、残兵をかき集め、信長を襲った。稲葉山城の斉藤軍からも兵3千余の応援が駆けつけ、激戦の末、信長軍も多くの死傷者を出し、小牧城へ撤退したのであった。

稲葉山城が落城する3年前、関が原の戦いに35年前のことである。

それ以後、安桜山城に城は作られていない。

(参考文献:中濃広域観光推進協議会『美濃路ポケット読本Vo.3』)

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また、もう一つのエピソードとして、安桜山城に千代が暮らしていたという説がある。

千代の出生の地については諸説あるが、功名が辻では、近江の国の若宮家の娘として物語がはじまった。
郡上では、昔から千代は初代八幡城主・遠藤盛数公の姫であるという郡上説が信じられており、それが近年になり相次いで、それを裏付ける数多くの古文書や系図などの史料が浮上してきたという。
郡上説では、幼少の千代は、数奇な運命をたどっている。

千代が3歳頃に、父遠藤盛数が亡くなり、それをきっかけに、母友は遠藤家安泰のためしぶしぶ、八幡城をにらむ関市安桜山城主永井隼人に、娘を連れて再婚した。

しかし、程なく信長勢に責められ安桜山城は落城。

母子は信長の手を逃れ近江へいき、そこで、兄嫁(長兄遠藤慶隆の妻)の実家である北方城主安東家の養女となったという。
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もう、15年~20年くらい前になるかもしれないが、記念事業か何かで、安桜山に城のハリボテが作られて、子どもながらに関にも城があったことをうれしく思ったことををかすかに覚えている。
まあ、それでも、安桜山城は、城というよりは、砦のようなもので、やはり関は、城下町としてというよりも、職人の町。

でも何で、桜もないのに、安桜山なんだろ・・・。
by takayukin_k | 2007-01-07 01:54 | フリーマガジンによるまちづくり

岐阜県関市でまちづくりの代表を16年し、市議会議員となりました。関市のまちづくりを政治活動、NPO活動、地域活動のさまざまな視点からお届けします。


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