美濃町線の歴史を振り返る

まちづくりにおいて、歴史ってすげー大事だと思う。
歴史は、まちづくりの活動にストーリーを与えてくれる。
活動にストーリーがつけば、活動している人自身、より愛着がもてるようになるし、活動への賛同者も増えることになる。

てなことで、さっそく美濃町線の歴史を調べてみた。
調べてみると、明治時代、日露戦争が終わったばかりの時代に、熱い男たちの戦い(ドタバタ)があった!!

(『新修・関市史 資料編近代・現代』平成9年、関市教育委員会市史編纂室より)
『美濃町線は、明治42年(1909年)に美濃電気軌道株式会社が設立され、明治44年(1911年)に岐阜市柳ヶ瀬から上有知間が開通した。私鉄としては県下で最初の鉄道であった。(国鉄を含めると、東海道線、中央本線につぐ3番目)
この鉄道は、岐阜と郡上、飛騨地方を結び、人々の交通の弁や物資の輸送を便利にすることによってその地方の開発に寄与することを目的とした。鉄道ができる前は、岐阜にも美濃にも徒歩か人力車または、長良川の舟運を利用していただけに、かなり便利になった。』

(明治44年2月11日美濃電鉄開通を祝う名古屋新聞記事よりなんとなく意訳)
「会社設立の経緯」
『日露戦争後の起業熱に浮かされた岐阜、関、上有知の有志者
が明治39年7月岐阜市で集会を開き、資本金を100万円を持って美濃電気軌道株式会社
を設立し、事務所を岐阜商業会議所内に置いた。翌40年、主務省より、軌道施設の特許権を獲得するまでは順調にいったのだが、起業熱が沈降し、金融界の大恐慌に伴い、岐阜市側の発起人の人たちは、採算面を悲観し、努力するものがいなくなり、ついに、せっかくとった特許権が放棄しようとする動きがあった。
そのうわさを聞いた関、上有知の発起人たちは、岐阜側の態度に怒り、両者は対立した。
明治42年、特許権取り消し間際になり、やっと、資本金を50万円に減額して、動き出した。
総株式数1万株のうち、5千株は発起人で引き受け、残りの半分を一般より、募集することとなったが、応募するものがほとんど折らずかなり厳しい状況となった。
そんなとき、大阪電気機商の才賀藤吉が電気関係すべてを大阪電気へ請け負うことを条件に4千株を引き受けた。残りは、沿線の人々が応募した。
しかし、創立総会開会当日には、重役配当問題のなかで、対立し、岐阜、関訪問の株主は一人も参加しないまま、重役等が決められた。初代取締役社長は才賀藤吉。』

ながながと書きましたが、なんかこの当時の会社設立のドタバタがなんか、今の状況ともにているような気がするのは、私だけでしょうか(笑)

・岐阜側の努力の不甲斐なさに、関側が立ち上がったか・・・
・広く一般から、お金を集めようとしたが集まらなかったというのが、現在のエンジェル基金か・・・。
・新鉄道会社に名乗りを上げてくれたマーゴの広瀬社長が才賀藤吉か・・・。

歴史は繰り返す!
美濃町線の復活はできそうな気がしてきた!
by takayukin_k | 2006-10-17 01:11 | 地域メディアのまちづくり

岐阜県関市の魅力をせき・まちづくりNPOぶうめらん代表北村隆幸の好みで発信するウェブメディアです。関に住んで、まちづくりに取り組む人ならではのディープな関の魅力を発信中。たまにまちづくりを暑苦しく語ります。


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