宝山町にある関の宝
2013年 02月 07日
私は中濃新聞をとても楽しみにしていた。関のために何かやりたいと、6年ほど離れたこのまち戻ってきた時、関市の今を知るために頼ったのは中濃新聞だった。特に経済、産業に関する情報が充実していたのだ。関のまちづくりには、まず何を取組めば良いのか、考えあぐねてくすぶっていた私にとって、中濃新聞は様々なヒントを与えてくれた。
関の魅力を伝えるフリーマガジンをはじめてからは、もっとお世話になった。関の歴史を調べる時には、まず図書館で中濃新聞を読みあさることから始まるのだ。関の図書館には、創刊号からすべての新聞が揃っている。何度も図書館に通い、調べ物をさせてもらった。「関の50年前」という特集の時にには隅々までネタ探しをさせてもらった。その時に、刃物会社を営んでいた亡き祖父北村民三の記事をいくつも見つけて、ものすごく感動したことを覚えている。
私は「新聞が生き残る鍵は、地域の情報の充実にある」と考えている。もっと言うのであれば、電子書籍が紙媒体を駆逐すると言われている中、地域に根ざすことが紙媒体の活躍場所だと思う。私の愛用しているiPhoneアプリには、「社説リーダー」なるものがあり、全国37誌の社説が読めて、さらにコラムも読める。天声人語も余録も春秋も読めるのだ。そこまで電子書籍で読めてしまう時代に、地域の生きた情報は、ネットではなかなか探せない。やっぱり情報源は新聞の地域面なのだ。
だからこそ、中濃新聞の必要性と役割を感じている。フリーペーパー、ブログ、ツイッター、facebookなど、関の情報を得る機会は増えてきたが、市民はまだまだ地域の情報を欲している。これはフリーマガジンをはじめて感じたことでもある。また、僕らがフリーマガジンで、関の歴史的資料としての役割を果たしたくとも、2ヶ月に1度のフリーマガジンでは、時事ネタを蓄積することができず、「関市のその時」を残すことができないのだ。
休刊は本当に残念としか言いようがない。
本社のあった関市宝山町の名の通り、中濃新聞は地域の宝の山だった。
最後に、薫田健吾さんのご冥福をお祈りいたします。